4万人近い若者たちが、冷たい雨の中で立ち尽くしていた――。
平成4年(1992)4月25日、突然の死を迎えた「10代のカリスマ」尾崎豊(享年26)。
その5日後、尾崎の告別式が東京・文京区にある護国寺で行われていた。
尾崎は死の前日、都内で開かれたイベントに夫人と共に参加。
夫人と別れたあと芝浦のクラブで飲んだあと、タクシーに乗り、自宅へ向かった。
ところが、途中でタクシー運転手と口論になり、千住大橋派出所前で下車。
2時間後の午前4時ごろ、自宅から1キロほど離れた民家の庭先で全裸で座りこんでいるところを発見された。
だが、救急車で運び込まれた病院で容態が急変。
死因は大量の覚せい剤服用による肺水腫だった。
当初は「外傷性クモ膜下出血」が原因とされたため、チーマーに襲われた、あるいは何者かにより暗殺されたのでは、という説がまことしやかに流れ、私も幾度となく千住大橋周辺を歩き回ったものだ。
尾崎は「10代の教祖」と言われながらも、その内実は繊細で、不器用だった。
無期限活動停止騒動、覚せい剤取締法違反での逮捕、そして女優・斉藤由貴との不倫‥‥。彼の回りには常にスキャンダルという影が付き纏っていた。
尾崎と1年間仕事を共にしたスタッフは、私にこんな話をしてくれたものだ。
「尾崎は確かに天才だった。全身全霊を傾けて取り組んでいたからこそ、あの切ない詞が生まれたことは間違ない。ただ、いったん酒を飲み始めたら必ず朝の4時、5時まで。スタッフも命を削る思いだった。ほとほと疲れ果ててしまい、結果みんな、彼のもとを去っていった。そんな孤独が尾崎をクスリへと駆り立てていったんだと思います」
だからこそ、尾崎豊はあらゆるストレスから解放されたいと願ったのだろうか。
それから、30年の歳月が流れた今年3月23日、東京・松屋銀座で、「OZAKI30 LAST STAGE 尾崎豊展」が開催され、長男でシンガー・ソングライターの尾崎裕哉が記者会見を行った。
「亡くなって30年たつけれど、ずっと誰かの1位に、みんなの1位になり続けているのは、ほんとにすごいことだなって。曲を作っているからこそ余計にすごさとか愛されたんだなっていうことを思いました」。
そういって亡き父を偲ぶ息子の姿に、ふと尾崎が亡くなる1週間前に訪れた六本木にあるパブのマスターの言葉を思い出した。
「尾崎さん、お母さんが亡くなってから、とにかく飲み方が異常でね。飲んでいる最中、仲間に、『なぁ、俺とお前は友達だよな』と聞くんです。で、しばらくすると、また尋ねるんです。なぁ、本当に友達だよなって‥‥。やっぱり、寂しかったんじゃないかなぁ」
自分の生きざまを歌にするたびに我が身を削り続け、その苦しみから逃れるために酒を求めた尾崎。
生真面目で不器用な男は、あまりにも早く旅立っていった。