記者バカ一代 マル秘取材メモで振り返る、昭和&平成「記者会見」裏面史

号泣!大爆笑!居直り!記者会見に見る、昭和・平成史

ミミ萩原 アイドル歌手を経て前人未踏の87連敗「最弱レスラー」が作った「新興宗教団体」

                               

 17歳で芸名「ミミ」で歌手デビュー。

 ところが22歳で歌手から一転、全日本女子プロレス所属の女子プロレスラーとしてリングに上がることになり、しかもデビューから87連敗という「前人未到の記録」を打ち立てたのが、ミミ萩原だ。

 とはいえ、その「史上最弱レスラー」ぶりが大いに話題になり、加えてサポーターが入らないほど露出度の高いハイレグ水着を着用するムンムン路線で試合に臨む。

 元祖ビジュアル系女子プロレスラーとして、抜群の人気と知名度を確立することになったのである。

 ケガに悩まされる日々が続く中、1984年4月に引退。

 その後は女優としてテレビドラマなどに出演するが、ほどなくして全日本女子プロレス創業家の長男、松永吉孝氏に見初められて結婚する。

 だが甘い結婚生活は長くは続かず、1987年5月16日に離婚を発表。

 離婚時の記者会見では、

「夫が長男で、跡継ぎをもうけなければいけない。私は女子プロレスで内臓を痛めているので、出産できない」

 と涙ながらに語るシーンが話題になったものだ。

 そんな彼女が「ブロードウェーで通用するミュージカルを目指す」として、自らが代表を務める会社「K.M.S」を立ち上げ、そのオープニングパーティーを東京・新宿のホテルで開催した。

 1989年5月11日のことである。

 女子プロ時代より過激さを増した、真っ赤な下着姿で登場したミミは、

「レスラーを引退してから丸5年。主にミュージカルの分野で仕事をしてきましたが、今後はさらに一歩進んで、歌って踊れて演技もできるエンターテイナーを目指したい」

 そして1970年代に大ヒットした女性ロックバンド、ランナウェイズの名曲「チェリー・ボンプ」をノリノリで歌い踊り、会見でもブロードウェイの舞台に立つ夢を熱く語っていた。

 だが、さすがは「アイドル歌手⇒プロレスラー⇒結婚⇒離婚⇒会社設立」と有為転変の半生を送ってきたミミだ。

 やはり社長という枠には収まり切れなかったのか、今度はなんと広島県の新興住宅地に「マリアン・チャーチ」なる教会を建てて、「マリア・ジーザス・ファミリー・コミュニティー」という信仰者の共同体を設立というからビックリ。

 しかも、1995年には13歳下の男性と結婚し、「プロレスの影響で難しい」としていた出産も経験。

 この急転直下の展開には驚いたものである。

 それでも、

「結局、夫とは2012年に離婚し、広島市内でレストランを経営するかたわら、舞台演出を手掛けているといわれます。彼女の波乱万丈な人生はまだ継続中のようですよ」(スポーツ紙記者)

 新興宗教団体では「マザー」と呼ばれ、多くの信者と生活を共にしていたという。波乱に満ちた人生も、あるいは聖母マリアが与えた試練なのかもしれない。

羽賀研二 「笑われてもいいんです」梅宮パパにダメ出しされた「誠意大将軍」

                                

「ペアヌード」に「バカップル」、さらには「腐った橋」「稀代のワル」等々、多くの名言を生み、平成のワイドショーを大いに賑わせてくれたのが、羽賀研二だった。

 当時、羽賀は梅宮アンナと交際。

 だが、金銭感覚のルーズさもあり、アンナパパこと梅宮辰夫は結婚に大反対。

 すったもんだの末、1999年春にアンナが別離宣言をした。

 しかし、諦めきれない羽賀は未練タラタラで、

「僕は今でもアンナを愛している。彼女もまだそう思っているはずだ」

 しまいには、梅宮パパから「もやはこれまで。男らしくしなさい」と諫められるシーンが、今も記憶に残っている。

 そんな羽賀に付けられたニックネームは「誠意大将軍」。

 当時の羽賀は、本当に「誠意を尽くして」「誠意の気持ちで」と、なにかにつけて「誠意」という言葉を連発。

 いつの頃からか、芸能マスコミが皮肉を込めて、そう呼ぶようになった。

 アンナ問題で連日のバッシングが続く中、そんな羽賀に目を付けたのが、松竹の奥山和由プロデューサーだった。

 奥山氏は羽賀を近日公開する映画「忠臣蔵外伝 四谷怪談」の15秒CMに起用。

 赤穂浪士姿に扮した羽賀が「誠意大将軍」と記された陣羽織にハチマキを巻き、「誠意」と大きく描かれたノボリを手に記者会見を開いたのは、1994年10月4日である。

 聞けばこの会見、同日公開された東宝映画「四十七人の刺客」に対抗するためだったらしいのだが、羽賀も「どっちを見るかは、誠意で選んでほしい」と猛アピール。

 会見では自分の言動を茶化すCMへの出演に抵抗はないのか、との質問が飛んだが、

「笑われてもいいんです。仕事ですから、見てくれるお客さんが喜んでくれればいいんです。今は落ち込んでいる場合じゃなく、いい意味でプラスにして仕事に反映できればいいと思っています」

 いたって前向きだ。

 しかし残念なことに、この「誠意CM」が梅宮パパには逆効果に。

 「言葉より態度で示してみろ」と畳みかけられ、2人の破局を後押しする形になってしまったのである。

 その後、アンナは一般男性と2001年6月にデキ婚。

 一方の羽賀は2007年7月の詐欺・恐喝未遂容疑での逮捕劇を経て実刑判決を受け、沖縄刑務所に服役(出所後、別件で再服役)することになった。

 出所後は新宿で期間限定ホストとしてデビューした後、現在は故郷・沖縄で芸能活動を続けていると伝えられる。

 捨てる神あれば拾う神ありで、芸能界というのは不思議な世界だ。

 出所後のインタビュー記事では、いまだ「誠意大将軍」という枕言葉が付く。

 いっそ開き直って「誠意」を振りかざしながら、叩かれても叩かれても這い上がり、芸能界を図太く生き抜いていく「稀代のワル」をリアルに演じてみたらどうなのか。

 ただ、女優陣のキャスティングは難航することになるかもしれないが…。

渡瀬恒彦 「安岡力也を半殺し」「舘ひろしに鉄拳制裁」芸能界最強伝説

                                   

 映画「仁義なき戦い」シリーズや、ドラマ「十津川警部」など数々の作品に出演。

 昭和、平成を代表する名優と言われた渡瀬恒彦が、多臓器不全のため都内の病院で亡くなったのは、2017年3月14日のことだ。72歳だった。

 説明するまでもなく、3歳違いの兄は渡哲也。

 渡瀬は大学卒業後、当時日活の青春スターだった兄とは別の道を歩んで、電通に就職。

 その後、東映にスカウトされ、サラリーマンから役者に転じたユニークな経歴を持つ。

 そんな2人が俳優として共演したのは3回。

 最初は1971年のNHKドラマ「あまくちからくち」だった。

 その後、40年ぶりとなる2回目の共演が、2011年12月放送のTBSドラマ「帰郷」だった。

 これは下町の人情味あふれる家族の絆を描いたもので、2人は劇中でも兄弟役を演じた。12月5日、千葉県市川市内で撮影はクランクアップ。

 その後、ラストシーンの正装姿のまま記者会見に臨んだ2人は、40年ぶりの共演に「プライベートではしたことがない」という握手を交わして照れ笑い。

 渡「身内には言いにくいが、(渡瀬は)私をはるかに超える俳優になった。私はボール気味のストレートしか投げられないが、弟はフォーク、スライダー、カーブも投げられる」

 渡瀬「撮影が終わって、ある種の寂しさを感じている。また兄弟共演をやってもいいかな」

 渡「弟とやるのはもう十分。遠慮します」

 照れる渡の姿に、会見場の雰囲気が和んだのだった。

 演技しかり、「ケンカも勉強も、弟の方が上だった」と常々語っていた渡だが、渡瀬の「芸能界最強伝説」が芸能記者の間で語り草になっていたことは事実だ。

 ベテラン芸能記者が言う。

「むろん本人の口から出た話ではありませんが、渡瀬は空手の有段者で、その強さはケタ外れ。安岡力也を東映会館の駐車場で半殺しにした、あるいは舘ひろしに鉄拳制裁を食らわせた。さらには血気盛んだった頃の、あの松田優作さえも一撃で倒したという伝説があり、映画を地で行く、いや映画以上の逸話が数多く残されています」

 ただ、ケンカの強さをひけらかすことはなく、現場では気配りの人とされ、多くの仲間や後輩から慕われていた渡瀬。

 そんな彼に胆のうガンが見つかったのは2015年だ。

 以降は闘病を続けてきたが、兄や仲間たちの願いが天に届くことはなかった。

 渡は石原プロを通じて、こうコメントした。

「幼少期より今日に到るまで二人の生い立ちや、同じ俳優として過ごした日々が思い返され、その情景が断ち切れず、辛さが募るばかりです」

 兄弟最後の共演は、2013年の「十津川警部シリーズ50作品記念『消えたタンカー』」だった。

 そして弟の死から3年後の2020年8月、兄も弟の元へと旅立った。

 深い絆で結ばれていた兄弟。天国では酒を酌み交わしながら、昔話に花を咲かせていることだろう。

カンニング竹山 「浮気報道」出版社に殴り込み?でも「土下座」のトホホ顛末

                              

「優しくて丁寧でしたよ。途中からは私の下になって『責めて、責めて』と甘えてきました。(中略)あの年齢でひと晩に3回も求めてきた上、翌朝も誘ってくるんですから」

 タレントの乙葉似だという20代女性が「週刊現代」に、カンニング竹山との高級ホテルでの一夜を、竹山の「恥ずかしい写真」を添えて告白したのは、2009年5月だった。

 記事によれば、2人は後輩芸人を交えた飲み会で出会った。

 その1カ月後、竹山の誘いで食事をした後、新宿の高層ビル群にある外資系高級ホテルにチェックイン。

 ほどなくしてこの暴露記事掲載となったわけだが、

「終わるとそのまますぐに寝てしまって、ピクリとも動かなかった。それを見て急に寂しくなりました」

 と、女性はその暴露理由を告白。

 「週刊現代」が本人にコメントを求めると、なんと記事締め切り前に発行元である講談社編集部を訪れた竹山は、いつものキレ芸がすっかり鳴りを潜め、

「これはもう誠心誠意、許してもらえるまで土下座するしかないです。100対0で僕が悪いですから」

 妻への謝罪の言葉を繰り返し、懺悔。土下座写真入りで、その一部始終が同誌に掲載されたのである。

 むろんこのネタで、竹山がお笑い仲間からイジられれたことは言うまでもないが、そんな彼が久々にこの騒動に言及したのが2016年3月24日、都内で行われた森永乳業のシリーズ新商品CM発表会見だった。

 コラーゲン不足で顔に竹山扮する「おっさん」が住みついてしまった、という美女を演じる栗山千明とともに登壇した竹山は、

「CMの話を奥さんにしたら『肌の中からアンタが出ていくんじゃなくて、家から出ていってよ』っていわれました」

 報道陣を沸かせると、「奥さんから出ていけと言われたのは初めて?」の質問に、

「知ってるだろ、聞くなよ。正確には4回目です」

 過去、夫人に浮気が4回バレたと告白したのだった。

「土下座しましたよ。そのうち2回、マスコミにバレてます」

 この会見で「浮気ネタ」が全面解禁になったのだろうか、その後、竹山はバラエティー番組などで、浮気報道の裏側を激白。

 2017年7月24日放送の「Momm!!」(TBS系)では、こう語っている。

「記事が出る前に(編集部から)あるじゃない、連絡が。『メールとかも全部持ってます』と。これはヤバイ、そんなん出されたら冗談じゃねぇ」

 そして編集部に乗り込んだものの、

「メールを消すためにはどうしたらいいですか」

 と懇願する竹山に対し、編集部は、

「今、土下座してくれたらメール消します」

 編集者に面白おかしく話したところ仲良くなって、「記事は芸人っぽく面白く書いておきます」と交渉が成立したという。

 講談社といえば、ビートたけしの殴り込み事件を思い出すが、竹山については編集部の関係者いわく、

「殴り込み? とんでもない。ひたすら低姿勢で、キレ芸で知られる本人とは思えなかったですよ」

 この騒動によって、キャラに反し、彼の恐妻家で生真面目な素顔が暴露されてしまったのである。

平尾昌晃 「60億円遺産」で骨肉バトル!「後妻VS実子」の罵倒訴訟の顛末

                               

 時として殺人事件に発展するケースもある、というのが遺産をめぐるトラブルだ。むろん、そこに至るには長年の確執があればこそだろうが、2017年7月に他界した作曲家・平尾昌晃(享年79)のケースはというと…。

 妻で個人事務所社長のMさんと、三男で歌手の平尾勇気を含めた3人の息子による骨肉の争いが勃発し、訴訟沙汰にまで発展したのだ。

 平尾の死去翌年の2018年秋のことだった。

よこはま・たそがれ」をはじめ、「瀬戸の花嫁」「カナダからの手紙」など、昭和を代表する数々の名曲を世に送り出したヒットメーカーだけに、著作権印税は年間約1億円とも言われ、10億円の社屋ビルなどを含めた遺産の総額は60億円にもなるとされた。

 私生活では3度の結婚歴があり、最初の妻との間に長男、2番目の妻との間には次男の亜紀矢氏、三男の勇気をもうけた。

 そして亡くなる4年前に再婚したのが、事務所の元マネージャーだったMさんだった。

 そのMさんが印税や著作権を不当に独占相続しようとしている、として息子たちが訴訟を起こしたのだから、コトは穏やかではない。

 2018年9月25日、都内で公認会計士を伴い記者会見を開いた勇気は、父の形見だとする黒いジャケット姿で、怒りに声を震わせながら口を開いた。

「彼女には父の著作権料の不当な独占など、数々の違法行為の疑いがある。彼女が本当に悪いことをしているのなら、法律に基づいて罪を償うべき。もう彼女と和解するのは無理です」

 勇気によれば、発端は前年10月。

 Mさんが平尾所有の法人2社の代表取締役に就任したのだが、実は同氏の遺産は個人ではなく、この2社が権限を持っていた。

株主総会すら開かれないまま、知らない間にMさんが社長に就いていた。これはどう考えても納得できない」

 そう言って激怒した勇気だが、東京地裁へ職務執行停止を求める仮処分の申し立てをした、とうわけである。

 だが翌2019年2月、東京地裁はこの申し立てを却下。

 さらに勇気らが抗告した東京高裁も同年6月には抗告を却下する。

 ただ、勇気側の説明によれば、

「個人事務所が一括管理していた著作権料50%が遺族間の管理に移行し、全著作権料が法定相続にのっとり、管理されることになったことで、問題はおおむね決着した」

 ところが、だ。

 終結したと思われたこの骨肉の遺産バトルは、これで終わりではなかった。

 なんとMさんが、勇気の会見に同席した公認会計士S氏を、名誉毀損で訴えたのである。スポーツ紙記者の話。

「会見でS氏はMさんを『後妻ビジネスの極悪非道版』と非難。Mさんとしては、公の場での発言は見過ごせないとして、S氏に損害賠償を求める名誉毀損訴訟となったわけです」

 裁判の結果、東京地裁はS氏へ、Mさんに対し110万円の支払いを命じる判決を下した。

 「後妻VS実子」から派生した思わぬ場外乱闘が、芸能マスコミを賑わせることになったのである。

高嶋政宏 結婚1年目で落とされた元交際相手の「妊娠と堕胎」暴露爆弾の行方

                                

「翔んで埼玉」シリーズの武内英樹が監督を務める7月公開の映画「もしも徳川家康が総理大臣になったら」で「最強内閣」のうち、農業政策の一翼を担う農林水産大臣徳川吉宗役を演じるのが、個性派俳優の高嶋政宏だ。

 高嶋は父・忠夫と母・寿美花代夫妻の長男で、弟の政伸も俳優という、いわゆる芸能人一家で生まれ育ったサラブレッド。

 しかし、弟夫妻には2011年、泥沼の離婚騒動が勃発する。

 弟の裁判の渦中、出演するミュージカル「エリザベート」の制作会見に臨んだ政宏は弟の離婚問題に触れ、

「泥沼騒動ですよね。泥沼は目の前にあったら避けていけるのに、ねえ。パソコンを人生初めて買ったので、使えるようになって政伸の記事を心置きなく見たいですね」

 ブラックジョークを飛ばして報道陣を沸かせたのだった。

 実はロングラン・ミュージカルでの共演がきっかけで高嶋が結婚相手に選んだのが、 現在の妻であるシルビア・グラブだった。

 2人は2000年の「エリザベート」で初共演。その後、交際を経て2004年12月14日、晴れて婚約記者会見に臨むことになった。

「初日の舞台稽古が終わって可愛いなと思いました」

 と言う高嶋に対し、シルビアは頬を赤らめてこう語る。

「後ろの席に座り、なんて背中の広い人なんだろうかと。スイス人の父もそうで、ガタイがいい人に魅力を感じていました」

 彼女は日本人の母を持つ、東京都出身。

 インターナショナルスクール卒業後はボストン大学に留学して、声楽科へ。帰国後の1997年に「ジェリーズ・ガールズ」で日本初舞台を踏んだ。

「シチューとか洋風料理がおいしい。子供はできるだけほしいですね」

 そう高嶋が語る理想の夫婦はむろん、両親。2人見つめ合いながら、

「あの年までいって、本当に夫婦だと思います」

 と言って会見を締めくくった。

 ところが、である。

 この記者会見をテレビで見ていたある女性が、翌2005年に衝撃告白をブチかます

 「週刊新潮」で「私はあなたの子供を堕ろしました」という衝撃的なタイトルとともに、高嶋の子供を妊娠、中絶した事実を明かしたのである。

 告白した沢ちひろ氏は、レベッカの「ラブ イズ Cash」をはじめ、沢田知可子の「会いたい」や近藤真彦の「ミッドナイト・シャッフル」などを手掛けた、売れっ子作詞家。

 記事によれば、2人は1993年から1995年にかけて交際。交際から2年後の1995年、沢氏が高嶋に妊娠を告げたというのだ。

 とはいえ、コトはだいぶ前の話。

 なぜあとになって告白したのか。彼女は「シルビアさんに、高嶋君の本当の姿を知らせたかったから」としているが、同時に「彼が婚約するのはいいですよ。でも記者会見をするなんて、デリカシーがなさすぎます」とも語っている。

 男女の仲というのはその別れ方により、その後の相手に対する感情は異なるものだが、高嶋にとってまさに青天の霹靂だったことは間違いない。

 忘れた頃の衝撃暴露に、芸能一家のサラブレッドが翻弄されることになったのである。

玉置浩二 青田典子「絶対別れない⇒香港で大ゲンカ⇒電撃入籍」の不思議

                              

「ま、あのテンションなら、もって2年。早ければ1年以内に離婚するな。間違いないよ」

 これは2010年7月16日、玉置浩二青田典子が婚姻届を提出した際、知人のスポーツ紙記者が言い放った言葉だ。

 ところが、それから14年あまり。

 3月9日に放送されたNHK BSの「玉置浩二ショー」では、ゲストの大泉洋森山直太朗とともに、青田もコーラスとして参加。

 当時と変わらぬ仲睦まじさに、改めて男女の相性というものの不思議さを痛感したのである。

 というのも、そのスポーツ紙記者が言うように、当時の玉置のテンションというか、暴走ぶりは、半端ではなかったからだ。

 当時、玉置は51歳でバツ3。一方の青田は42歳で、こちらもバツイチ。

 もともと親密な関係にあった2人が六本木のクラブで再会したのは、20年を経た2009年だった。

 その後、交際が報じられたのだが、2009年5月23日、香港で行われる「安全地帯」のアジアツアー発表会見に出席するため成田空港に姿を現した玉置の傍らには、なんと青田の姿が。

 詰めかけた報道陣に対して玉置は「結婚の予定は?」と聞かれて、

「結果的に結婚するんじゃないの。誘惑してくる女はいるかもしれないけど、絶対別れないよ」

 そう言うと青田を抱き寄せ、ハネムーカップルさながらにゲートへと消えていったのである。

 翌日の新聞、テレビはこぞって「結婚間近」と大々的に報じたのだった。

 この暴走発言から2日後の5月25日、2人は別々に帰国。

 しかも出国時、あれだけ饒舌だった玉置が突如として前言を翻す。

「青田は青田。俺、関係ないもん。俺は安全地帯の仕事で行ったの。青田に聞けよ! 愛の営み? なんだ、それ」

 それはそれは不機嫌なこと。

 関係者によれば、香港で2人が大喧嘩したらしく、冒頭の記者同様、大方の芸能記者が「破局は時間の問題だろう」とみていたようだ。

 ところが、だ。そんな予想をヨソに、2人は玉置の実家がある北海道・旭川市で電撃入籍。翌日、2人は帰京したが、玉置は羽田空港での囲み取材で、

「今の心境? そうだね、『♪泣かないで一人で…あなたのそばにいるから~』だね」 と超ゴキゲン。夜の生活についての質問も飛んだが、2人は見つめ合って、

「いつものように…ね~」

 ただ、ニタニタするのみだ。とはいえ、玉置は事実婚を含めると、これで5回目。筆者を含め、集まった芸能記者にとって「思いつき婚」感は否めなかった。

 しかし、玉置は「死ぬまで一緒です」という言葉を今も貫き通している。

 くっついた離れたが日常茶飯の芸能界。

 5回目の結婚に「俺たちの愛は太陽にも負けない!」と豪語した玉置。やはり男女の仲というのは、他人には計り知れないものなのである。