記者バカ一代 マル秘取材メモで振り返る、昭和&平成「記者会見」裏面史

号泣!大爆笑!居直り!記者会見に見る、昭和・平成史

八代亜紀 「無言のプロポーズ」で結婚から27年目の衝撃離婚と「浜村淳の暴露」騒動

                          

 年が明けてようやく世の中が動き出し始めた1月9日、所属事務所から発表された八代亜紀さんの訃報に、日本中が悲しみに包まれた。

「雨の慕情」や「舟唄」で知られる「演歌の女王」八代さんが膠原病発症を発表したのは、昨年9月。

 入院後、病状は安定していたものの、12月に入り急速進行性間質性肺炎を併発。容態が急変し、12月30日に73歳の生涯に静かに幕を下ろしたという。

 筆者は以前、このコラムで、八代さんが東京・目黒に豪邸を建て、郷里の熊本から両親を呼び、一緒に暮らし始めた頃のエピソードを書いたが、父・敬光さんの「本当は家なんか建てるよりも早く嫁に行け、っていったんですけどね」と目を細めた、その姿を憶えている。

 ところが同居から6年後の1991年2月、敬光さんが心筋梗塞のため死去。

 彼女は「父に故郷を捨てさせ、友達からも遠ざけてしまった。寂しい思いをさせてしまったのではないでしょうか。私は親孝行だったでしょうか…」と号泣したものである。

 そんな父の「早く嫁に行け」という願いが叶ったのは、1993年9月のことだ。

 相手は15年来のマネージャーで、彼女がオーナーの和菓子店「花のれん八代茶屋」社長でもある増田登氏だった。

 9月19日に新宿コマ劇場で行われた、ツーショット会見。

 舞台上には金屏風が立てられ、その前に座る2人の指には1カラットの婚約指輪が光っていた。

 実は八代さんにはそれまで、レコードプロデューサーや青年実業家、医師とのロマンスがあったが、最終的に結婚を決断したのは父・敬光さんが認めていた増田氏だったのである。

「彼からのプロポーズの言葉は『無言』です。長い間、彼を見ていて、私のために一生懸命働いてくれる彼の後ろ姿を見て、その無言の姿がプロポーズだと思いました。そして、いいわよと言いました」

 そう話す八代さんは1月29日に入籍し、敬光さんの3回忌が済んでから挙式したいとして、「彼のほうが年下だけど、彼は何でも知っていて尊敬できる人」

 と、はにかんだ。

 それから27年、2人はおしどり夫婦と言われてきた。

 だからこそ、2021年6月に離婚が報じられた時には本当に驚いた。

 さらに翌7月には、浜村淳がラジオ番組で「離婚の原因は婿はんの浮気」と発言。

 その真意をめぐって様々な憶測が流れたが、所属事務所から出されたのは「話し合いの結果、長年のパートナーシップを解消して別々の道を歩んでいくという結論に至りました」というコメントのみ。

 本当の理由はわからない。

 ただ、70歳での離婚決断の裏にはやはり、何かがあったことだけは間違いないだろう。

 そんな報道からわずか2年半での訃報だった。

 父親が旅立った際、記者会見で「私の命を半分あげるから生きていてほしかった」と涙した八代さん。

 今ごろは、天国で親子笑いながら昔話に花を咲かせていることだろう。心から、ご冥福をお祈りしたい。