記者バカ一代 マル秘取材メモで振り返る、昭和&平成「記者会見」裏面史

号泣!大爆笑!居直り!記者会見に見る、昭和・平成史

森進一 「おふくろさん騒動」で大物作詞家を激怒させた「三文芝居」の劇的結末

                              

 古今東西、エンターテインメントの世界では1曲の歌を巡り、それを作った作家と、歌う歌手との間でトラブルが起こることはままある。

 しかし、ここまでこじれたケースは稀だったのではないか。

 連日、世間を騒がせたのが、作詞家の川内康範氏と歌手・森進一との「おふくろさん騒動」だった。

 コトの起こりは2006年の大みそかNHK紅白歌合戦で森が歌った「おふくろさん」だ。

 この名曲に森が、オリジナルにはないパートを付け加えて歌ったことで、作詞した川内氏が激怒。

 翌年2月には、著作権侵害だとして「もう、森にはこの歌を歌わせない」と「おふくろさん」の歌唱封印を通告したのである。

 ただ、森自身は当初、歌い出し部分の変更は事務所主導で行われたことであり、「謝る理由はわからない」と発言。

 ところがこの発言が2人の関係をさらに悪化させ、森は川内氏が書いた33曲全てを封印せざるをえない状況に追い込まれた。

 そこで森は川内氏に直接謝罪するため、青森県八戸市にある同氏の自宅を訪ねるが、あいにく留守。家人に「とらや」の羊羹と手紙を託した。

 翌日のスポーツ紙とワイドショーが、この「八戸訪問」を一斉に報じたことで、今度は事前に訪問をマスコミに知らせていたことに対して「三文芝居もほどほどにしろ!」と、さらに川内氏の怒りを増幅させる結果になってしまうのである。

 騒動から1年後の2008年4月6日、結局、川内氏は和解しないまま、この世を去った。

 ところが、08年9月、森にとって青天の霹靂となる事件が起こる。

 なんと、川内氏の長男で弁護士の飯沼春樹氏が「川内は怒りの拳を下ろすタイミングを失って、亡くなった。成仏してもらうためにも、封印を解きたい」との思いから和解に向けて動き出したのだ。

 そして10月31日、森が「33曲とも原曲通りに歌う」という合意書に署名することで、電撃的和解が成立。

 11月6日に、飯沼氏と共に記者会見に臨んだ森は、

「嬉しいというよりも、ありがたく重く受け止めている。これまで以上に心を込めて歌いたい」

 神妙な面持ちを見せたが、解禁のタイミングについては「全く決めていない」と明言しなかった。

 そんなこともあり、この5日後に都内で行われた森のコンサートには筆者も含め、芸能マスコミが大挙して詰めかけた。

 いつもなら二つ返事で取材OKの事務所が、この日はなぜか取材NG。

 結局、筆者もチケットを購入して、客席から取材メモにペンを走らせたものである。

 かつて報道陣の質問に対し、「三文芝居の片棒を担ぐお前らの質問には答えない」と厳しい口調で語った川内氏。

 この顛末、向こうの世界からどんな思いで眺めていたのだろうか。