記者バカ一代 マル秘取材メモで振り返る、昭和&平成「記者会見」裏面史

号泣!大爆笑!居直り!記者会見に見る、昭和・平成史

萬田久子 ガン病室での最後の言葉は「結婚しよう」彼女が涙した禁断の「事実婚生活」22年

 

                             

 昭和63年(1988)1月28日午後。

 私は成田空港の南ウイング16番ゲートの正面にいた。

 私を含め、そこに集まった報道陣の数は100人以上。

 午後4時5分、「未婚の母」となった萬田久子が黒いコートに身を包み、肩まで伸びた髪をなびかせて、7カ月ぶりに姿を見せた。

 無数のフラッシュをかいくぐり、サテライトへと向かう萬田に取材陣から「今のお気持ちを聞かせてもらえませんか」との声が飛ぶ。

 萬田は唇を噛みしめたまま、ノーコメント。

 当然のことだ。

 前年2月、9歳年上の妻子ある青年実業家A氏との関係が発覚。

 突然、休業を宣言して渡米。

 その年の10月に長男を出産し、未入籍のまま単身で帰国したのだ。

 そんな状況で「今の気持ちは?」と聞かれても、そう簡単に経過や心情を説明するのは難しいだろう。

 怒号と悲鳴が飛び交うバタバタの帰国劇から1年後の平成元年(1989)。

 A氏が東京・目黒に、2億円の豪邸を購入する。

 それをきっかけに2人の事実婚生活が始まり、平成6年(1994)にはA氏と妻の離婚が成立したことで、誰の目にも2人の結婚は間近、と映っていた。

 だが、萬田は「結婚」を選ばなかったのである。

 その理由は、資産家であるA氏と結婚することで「財産目当て」と言われることに対する「女の意地」、あるいは、A氏と前妻との間の3人の子供への「配慮」等々、いろいろと憶測されたものだ。

 しかし…籍を入れずに過ごした25年間は突然、終わりを告げる。

 平成23年(2011)6月、A氏が「スキルス性胃ガン」と診断されたのだ。

 既に末期の状態だった。

 それに追い打ちをかけるように、8月には「週刊新潮」が、A氏にもう1人の隠し子がいたことを報じた。

 それでも、彼女は動じることなく、息子、そして前妻の3人の子供たちと交代でA氏に付き添い、懸命に看護。

 だが、その願いは届かず、8月9日、A氏は旅立った。

 享年60。

 8月14日、東京・青山葬儀所で行われた通夜で喪主を務めた萬田は、囲み取材に答え、

「本当は『私が先に逝くから、あなたが私を見送ってね』と言っていたんですよ。彼は『よし、わかった』と…」

 そして、最後の会話となった7月12日を振り返り、

「『元気になったら、結婚しよう』と、病室で。でも、嬉しいっていうか、なんかねぇ。ちょっと遅いですよね」

 そう言うと、天を仰いだ。

 その言葉には、彼女だけが知る複雑な思いが滲み出ているようだった。