昭和63年(1988)1月28日午後。
私は成田空港の南ウイング16番ゲートの正面にいた。
私を含め、そこに集まった報道陣の数は100人以上。
午後4時5分、「未婚の母」となった萬田久子が黒いコートに身を包み、肩まで伸びた髪をなびかせて、7カ月ぶりに姿を見せた。
無数のフラッシュをかいくぐり、サテライトへと向かう萬田に取材陣から「今のお気持ちを聞かせてもらえませんか」との声が飛ぶ。
萬田は唇を噛みしめたまま、ノーコメント。
当然のことだ。
前年2月、9歳年上の妻子ある青年実業家A氏との関係が発覚。
突然、休業を宣言して渡米。
その年の10月に長男を出産し、未入籍のまま単身で帰国したのだ。
そんな状況で「今の気持ちは?」と聞かれても、そう簡単に経過や心情を説明するのは難しいだろう。
怒号と悲鳴が飛び交うバタバタの帰国劇から1年後の平成元年(1989)。
A氏が東京・目黒に、2億円の豪邸を購入する。
それをきっかけに2人の事実婚生活が始まり、平成6年(1994)にはA氏と妻の離婚が成立したことで、誰の目にも2人の結婚は間近、と映っていた。
だが、萬田は「結婚」を選ばなかったのである。
その理由は、資産家であるA氏と結婚することで「財産目当て」と言われることに対する「女の意地」、あるいは、A氏と前妻との間の3人の子供への「配慮」等々、いろいろと憶測されたものだ。
しかし…籍を入れずに過ごした25年間は突然、終わりを告げる。
平成23年(2011)6月、A氏が「スキルス性胃ガン」と診断されたのだ。
既に末期の状態だった。
それに追い打ちをかけるように、8月には「週刊新潮」が、A氏にもう1人の隠し子がいたことを報じた。
それでも、彼女は動じることなく、息子、そして前妻の3人の子供たちと交代でA氏に付き添い、懸命に看護。
だが、その願いは届かず、8月9日、A氏は旅立った。
享年60。
8月14日、東京・青山葬儀所で行われた通夜で喪主を務めた萬田は、囲み取材に答え、
「本当は『私が先に逝くから、あなたが私を見送ってね』と言っていたんですよ。彼は『よし、わかった』と…」
そして、最後の会話となった7月12日を振り返り、
「『元気になったら、結婚しよう』と、病室で。でも、嬉しいっていうか、なんかねぇ。ちょっと遅いですよね」
そう言うと、天を仰いだ。
その言葉には、彼女だけが知る複雑な思いが滲み出ているようだった。