記者バカ一代 マル秘取材メモで振り返る、昭和&平成「記者会見」裏面史

号泣!大爆笑!居直り!記者会見に見る、昭和・平成史

西城秀樹 平衡感覚がゼロに…「2度の脳梗塞」、苛烈リハビリ後に立った夢のステージ

                            

 平成24年(2012)8月26日、日本テレビ系で放送された「24時間テレビ35 愛は地球を救う」。

 そのメイン会場となった日本武道館には、アメリカの国旗を彩った衣装に身をまとい、両手を大きく広げながら、往年の大ヒット曲「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を力強く歌う西城秀樹の姿があった。

 西城は48歳だった03年6月、韓国での公演中に不調を訴え、緊急入院。

 脳梗塞と診断され、7月2日に退院後、自宅で療養しながらリハビリを続けていた。

 7月16日に行われる福島市でのディナーショー前日、都内のレコード会社で会見に臨むことになったのである。

 西城は脳梗塞誘発の要因は、極端なダイエットとスポーツが悪い形で現れた結果だとして、

「デビュー32年目で、頑張ろうという気持ちが裏目に出てしまって。最初は、言葉が出てこないし、体も鉛のように重くて、病院の廊下も歩けない。歌唱力が完全に戻るのに3カ月から半年ぐらいかかると言われましたが、時間が経つほどに症状も軽くなり、生きているだけでもよかったと、おおらかに考えられるようになりました」

 しかし、リハビリによる回復が見られた同23年(2011)12月、2度目の脳梗塞が襲い掛かる。

 しかも今度は前回よりひどく、右半身麻痺の後遺症に悩まされることになった。

 再び壮絶なリハビリ生活を余儀なくされた西城。

 だが、懸命の努力は嘘をつかず、およそ9カ月ぶりとなるこの日、夢にまで見たステージに立つことになったのである。

 私がそんな西城を取材したのは、2014年3月8日。

 財団法人「日本言語聴覚士協会」が主催する「脳梗塞からの復帰とリハビリについて」というイベントだった。

 西城は1回目の脳梗塞を発症した後、再発防止のため生活習慣を改め、食事にも細心の注意を払っていたというが、

「2度目の時は平衡感覚がゼロになって、体のバランスが全然取れない。めまいに加えて呂律も回らなくて…」

 結果、右手と右足に障害が残ってしまったという。2週間ほどしてリハビリ専門病院に転院したが、

「とにかく、毎日イライラして…。幼稚園児が覚えるようなスピードでも、覚えられない。焦るばかりでした」

 そんな状態の西城を支えてくれたのが家族の存在だったといい、

「妻は同情っぽいことを一切言わず、普通に接してくれますが、普通にするというのは、すごく勇気がいること。暗い場所を歩く時は、子供たちもサッと手を引いてくれるし。そんな心遣いが嬉しいですね」

 そう言って、目を細めるのだった。

 しかし、この取材から4年後、完全復活の願いはかなわず、2018年5月16日、西城は向こうの世界へと旅立った。

 5月26日、東京・青山葬儀所で執り行われた葬儀・告別式に集まった参列者は1万人。

 涙の大合唱で送られる彼の姿に、改めて昭和の大スターの風格を感じたものである。

YMO「10年振りの新曲発表」のなぜ?と、語られなかった「再結成の動機」

 

                        

 詰めかけた報道陣、音楽関係者の数、およそ500人! 

 平成5年(1993)4月1日、東京・目白の「ホテル椿山荘東京」で行われた、YMOの「再生記者会見」会場は異様な熱気に包まれていた。

 そんな中、いささかポンコツなロボットに促された3人が、「今眠りから覚めた」との演出で、手錠に繋がれ、ベッドインしたままステージに現れると、場内から大きなどよめきが起こる。

 周知のように、YMOイエロー・マジック・オーケストラ)は、80年代のテクノ / ニュー・ウェイヴのムーブメントをけん引した、細野晴臣高橋幸宏坂本龍一の3人によるテクノ・トリオ。

 昭和53年(1978)11月にアルファ・レコードから「イエロー・マジック・オーケストラ」でデビューすると、同58年(1983)に「散開」(解散)するまでの5年間、音楽だけでなく、ファッションの分野でも日本を席巻した。

 いわば80年代を象徴するスーパーグループだった。

 ただ、解散後は3人が揃ってメディアに登場することはなかった。

 いきおい、この再結成会見が俄然、注目されたというわけだ。

 ところが、同会見では4月28日発売予定の「ポケットが虹でいっぱい」のサンプルカセットと、彼らの歴史が記載されたパンフレットが渡されたものの、肝心な音源の紹介はなし。

 また、再結成は、テクノブーム再燃の兆しがあることや、海外からの強いラブコールがあったためと説明するのだが、

「3人ともやることがいっぱいで、ずっと(再結成に)抵抗感があった」(細野)

「(再結成の)噂に負けたんですよ。ただ、レコーディングをして坂本君がずいぶん大人になったな、と思いました」(高橋)

「再結成には戸惑いもあったが、お祭りのような時間が過ごせれば…。ジュリアナ・テクノではないYMOの音楽を楽しんでもらいたい」(坂本)

 結局、彼らの口から明確な再結成の動機が語られることはなく、音楽専門メディアの記者たちにとっては不完全燃焼な会見になってしまった。

 案の定、一部メディアからは、

「今、再結成する理由がわからない」「結局は柳の下のドジョウを狙って!」「テクノという言葉が旬のうちにもうひと稼ぎ」

 等々、辛辣な文字が並んだものだが、当時取材した音楽ライターは、こう語っていた。

「再結成が本人たちの意思なのか、あるいはまわりにいる、音楽をビジネスとしか考えない人たちの策略なのかはわかりませんが、YMOのすごさはなんといっても、当時の時代の空気を体現していたこと。だからこそ、彼らの影響は音楽だけに留まらなかった。そう考えると、やはり『今さら感』は否めないですよね」

 とはいえ、6月の東京ドームチケットは即完売。

 「雑音」を跳ね返す底力を見せたのだった。

島倉千代子 乳がん公表で「神様助けて」… そして、「死の3日前にしたためたメッセージ」

                               

 昭和30年(1955)3月に「この世の花」でデビュー、いきなり200万枚のミリオンヒットを記録し、あっという間に人気歌手の仲間入りを果たしたのが、当時17歳の島倉千代子だった。

 だが、歌手としての栄光の陰には、常に波乱の人生がつきまとっていた。

 25歳で元阪神タイガースの藤本勝巳と結婚したが、2度の妊娠中絶を経て5年で離婚。

 実家に戻ると、母親から「家に入れない」と追い出され、その後も最愛の姉が入水自死

 また、知人らの借金の保証人になったことで10億円を超える借金を背負い、返済のため、寝る間も惜しんで働いたことはよく知られる話だ。

 だが、そんな肉体的、精神的疲労のなか、静かに忍び寄ってきたのが、がんだった。 

 平成5年(1993)3月9日。

 島倉は東京・赤坂の日本コロンビアで記者会見を開き、乳がんであることを告白した。

「病名を知らされたときは、ショックで倒れそうになりました。でも、病気を知ってから、まず何をすべきかと。ここ(胸を指して)にがんがあるんだと認めることから始めました。私が闘っているのと同じように、みなさんも病気に負けないで精神力で頑張ってください」

 彼女はさらにこう続けた。

「色々あり過ぎた人生に、またこんな試練が待っているなんて。神様、助けて、と毎日祈っています。でも、私には歌しかない。また歌うために頑張ります」

 しかし、そんな島倉が、再びがんに侵されたのは同22年(2010)のことだった。

 3年後の同25年(2013)には肝硬変を併発。

 入退院を繰り返したが、同年11月8日、ついに帰らぬ人となった。享年75。

 11月14日、東京・青山葬儀所でしめやかに執り行われた葬儀では、お気に入りだった紫の着物姿でほほ笑む遺影の前に、彼女が長年愛用していた白いマイクが置かれていた。

 そして、会場に流されたのが最後のメッセージだった。

〈自分の人生の最後に、もう2度と見られないこの風景を見せていただきながら歌を入れられるって、こんな幸せはありませんでした〉

 彼女が人生の最後に歌った歌──。

 それがデビュー60周年に向け、亡くなる3日前に自宅でレコーディングされた新曲「からたちの小径」だった。

 からたちの花言葉は、「思い出」。

 その歌には、島倉千代子という女性の、75年の人生すべてが凝縮されているようだった。

SPEED 電撃解散でしどろもどろ…島袋寛子の恋愛トラブル発覚の舞台裏

                            

 制作発表は別にして、記者会見には何か拠所ないような事案が発生し、マスコミ各社から問い合わせを受けて個別対応ができないため会見となる、というパターンが多い。

 特に事案がスキャンダルの場合、記事が出る前に事務所が会見を開くことがある。

 本人の口から語らせることで記事のトーン自体を変え、さらには1社だけの「スクープ」を潰すこともできる。

 そんな理由による会見も、珍しいことではない。

 その代表が、平成11年(1999)10月5日に所属レコード会社で行われた、人気アイドルグループ「SPEED」の、電撃的な解散発表記者会見だったのではないだろうか。

 SPEEDは同8年(1996)に「Body & Soul」でデビューした、島袋寛子今井絵理子新垣仁絵上原多香子からなる4人組グループだ。

 全員が安室奈美恵やMAXを生んだ沖縄アクターズスクールの出身で、アイドルとは思えぬ完成されたパフォーマンスが人気を呼んだ。

 そんなこともあり、午後4時、4人揃っての記者会見には200人を超える報道陣が集結。

 それぞれに名前が記入されたプレートの前で、マイクに向かった彼女たちは、

「昨年8月くらいから解散という話は出ていて。みんなにとって、すごくいい挑戦だと思うし、1人でも頑張ろうと思います」(今井・16歳)

「それぞれの夢があって、私はアメリカで勉強したいと思っています」(新垣・18歳)

「1人でデビューした時は心細かったけど、4人でやってこれてよかった」(上原・16歳)

 と、将来への抱負を語ったのだが、唯一、島袋(15歳)だけは、

「沖縄で店を開くのは夢だったりしますが、それは(解散後の来年)3月の後の期間でじっくり考えます」と、いまひとつ元気がなかった。

 それもそのはずだ。

 そもそも解散に至った理由が、島袋の恋愛に所属事務所が反対し、それに反発した彼女が芸能界引退を申し入れたことにあったのだから…。

 島袋は元ジャニーズJr.のタレントで、その後、同じ系列の事務所に所属するAと、2年前から交際。

 しかし事務所はこれを認めず、Aを解雇した。

 猛反発した島袋は「彼をクビにするのなら、私も引退して沖縄に帰る!」と抗議し、引き留めるメンバーの声も振り払って、引退を決意。

 その一部始終が会見翌日の6日、写真誌「FOCUS」に掲載されることをキャッチした所属事務所がこの会見を仕込んだ、というのである。

 しかし、会見でのしどろもどろな話しぶりがアダとなり、

「SPEED電撃解散『島袋15歳の選択』への大トラブル」

 と題する、その記事が大いに注目されることになってしまう。

 ちなみに、島袋はAと別れた後、歌手として復帰。

 同29年(2017)2月には、12歳年下の俳優・早乙女友貴と結婚した。

 2人は出会ってわずか7カ月で婚約。

 まさにSPEED婚だった。

松本人志 木村一八を激怒させた「横山やすし一家」をコケにした「不遜ギャグ」の波紋!

                            

「オヤジは、自分は何を言われてもええけど、家族のことを言われたら怒りはる人でした。こっちが『謝れ』言うてから謝りに来るくらいなら、謝ってもらわんでもエエ」

 平成8年(1996)1月25日、故・横山やすし(享年51)の初七日法要の後、報道陣の囲み取材に答えた長男・木村一八は、ダウンタウン松本人志に対し、こう言って怒りをあらわにした。

 コトの発端は、松本のレギュラー番組「ダウンタウンのごっつええ感じ」(フジテレビ系)で前年9月から始まった「やすしくん」というコーナー。

 黒ブチめがねに短めのオールバックで「ワシは日本一の芸人や!怒るでぇ~、しかし!」と、誰が見ても生前の横山とわかるキャラクターでギャグを連発。

 しかも、晩年は吉本興業を解雇され、生活の貧困が伝えられていた横山を模して、

「ガス、止められとるがな、しかし。ガス屋もええ根性しとるの」

「水道、止められとるがな。近畿の水がめ琵琶湖も、いい根性しとる!」

 とパロディーにしたことで、木村をはじめ横山の遺族、関係者を激怒させる結果になったのである。

 会見には未亡人となった妻の啓子さんも同席。

「(松本には)自分の実力でお仕事をしてくれはったら…。他人の家庭のネタでお仕事するんじゃなくてね。娘の光も中学ですしね。イジメのネタにでもなったら、どうしますか。私らはみじめです」

 そう言って、唇を噛み締めた。

 一説によれば、松本はダウンタウンの前身で「ライト兄弟」と名乗っていた頃、横山が司会する「ザ・テレビ演芸」に出場。

 その際、横山から「お前ら、ナメとんのか。そんなもん、漫才やない。チンピラの立ち話や!」とコキ下ろされ、その遺恨で…という噂も飛び交った。

 吉本興業は「その件についてコメントするつもりはありません」と回答するのみ。

 松本自身もコメントを出すことはなく、「やすしくん」は、横山が死去して以降、打ち切られた。

 ところがこの騒動はその後、ワイドショーなどで評論家やコメンテーターを巻き込む「場外乱闘」へと発展する。

 「もう『起き上がれない』とみて、笑いものにするのは卑劣」

 「芸人である以上、ネタにされるのは宿命だが、家族を茶化すのはルール違反」

 「いや、芸人は真似されてナンボだから、怒るのは野暮。笑い飛ばすべき」

 等々、意見は割れたものだが、評論家の小沢遼子氏に話を聞くと、

「そんなもの、当事者同士でやりあえばいい話で、第三者がいいと悪いとか、あれこれ言う話じゃないんじゃないの」。

 ともあれ、この年しょっぱな、芸能マスコミをにぎわせた大騒動だった。

 

若村麻由美 ドロ沼「不貞裁判」から3年…世間を驚かせた「釈尊会会長」とのビックリ婚!

                             

 映画「老後の資金がありません」や「科捜研の女 劇場版」(共に令和3年公開)をはじめ、数々のドラマや舞台で活躍する実力派女優、若村麻由美

 そんな彼女が都内のホテルで記者会見を開き、宗教団体「釈尊会」会長の小野兼弘氏との結婚を発表。平成16年(2004)2月26日のことである。

 2人は前年9月に極秘入籍。それが一部週刊誌でスクープされ、5カ月遅れのこの日、晴れて結婚報告会見という運びになった。

 岡山県に本部を置く釈尊会は、信者約1万人(当時)。

 バツ2という小野氏はスキンヘッドに体重150キロといわれる巨漢。

 しかも、ここに至るまでの2人の関係が、なんとも複雑怪奇というほかなかった。

 結婚発表から遡ること5年。

 釈尊会には俳優の渡辺謙夫妻も揃って入信し、熱心な信者として活動していたのだが、同13年(2001)、夫人による離婚裁判が勃発した。

 ところが、2人を知る関係者として裁判の口頭弁論に立った小野氏が「夫人に4億5000万円を貸した」と証言。

 残り4100万円の返済が滞っている、と暴露したから大変。

 さらに、裁判で夫人が「離婚原因」として挙げたのが「渡辺の不貞」だった。

 その相手の一人として法廷で名指しされたのが若村だったことで、連日、芸能マスコミがこの話題を取り上げるなど、上を下への大騒ぎになったのである。

 そんなドロ沼裁判から3年。

 突然、飛び出したのが、裁判で渡辺の不貞相手と名指しされた若村と、渡辺夫妻の「大口債権者」である小野会長という衝撃的な取り合わせによる電撃結婚だった。

 会見に和服姿で登場した若村は、結婚を決めた理由について、

「見た目のタイプではなく、何より人柄に惹かれました。(一緒にいると)大きく包み込まれている感覚です」

 と言って目を輝かせたが、釈尊会に詳しいジャーナリストの大林高士氏によれば、

「小野氏は遊び方が派手で、銀座で一晩100万円を使うこともざら。若村の方が小野会長にベタ惚れだったようですが、若村が多額の借金がある小野氏に貢いでいた、という話も伝え聞きますからね。結婚生活がうまくいくかどうかは未知数でしょう」

 結婚会見では「夫の栄養面なども気遣うつもり」と発言していたが、そんな小野氏が肝不全のため、同19年(2007)4月18日に突然、帰らぬ人となった。

 若村はマスコミ各社に直筆のファックスで

〈あまりに突然のことで、事実を受け止めることが出来ません〉

 とコメントした。

 夫の死後、しばらく喪に服していたが、徐々に芸能活動を再開。

 安定した実力と、様々な経験で培われた演技力で、ドラマや映画などで再ブレイクする。皮肉にも波乱に満ちた実体験が、彼女の芸域を広げる結果となったのである。

若山富三郎 弟・勝新太郎の薬物逮捕で吐き捨てた「惨めなヤツだ」発言の裏にあった心情

                              

「あれほどの男が恥を忍んで、私に頭を下げてきたんだからね。貸さないわけにはいかないじゃないの!」

 以前、取材した浅草「ロック座」名誉会長・齋藤智恵子さんは、こういって苦笑いした。

 彼女が言う「あれほどの男」とは、俳優の若山富三郎を指す。

 齋藤さんは若山に5000万円、さらに弟・勝新太郎に20億円以上を用立てたものの、2人の死により、借金の大半をチャラにしたとして当時、メディアで話題になった女傑である。

 映画「子連れ狼」の拝一刀をはじめ、「火の鳥」では猿田彦、また「ブラック・レイン」では極道のボスを演じるなど、重厚な演技で日本映画界にその名を刻んできた若山。

 だが若い頃には、弟の勝が先に「座頭市」で映画デビューして人気を得たこともあり、勝に酷似していた若山は映画会社を転々とするなど、不遇の時代もあった。

 そんな時、齋藤さんが某テレビ番組で「やり手女性実業家」として取り上げられ、それを見た若山から連絡が入る。

 その後、兄弟と家族同然の付き合いが始まったというのだ。

 ところが、平成2年(1990)1月16日、勝がハワイで薬物逮捕されるという事件が起きる。

 1月19日、報道陣に囲まれた若山は、強い口調で吐き捨てた。

「惨めなヤツだ。犯人が実地検証に連れて行かれるみたいに、顔を隠したりして。もう、私が何やかや言う年ではない。60も間もないっていうのに、そんなバカバカしい話ってあるかい!」

 ただそれは、あくまでもマスコミに向けたコメントだったと齋藤さんは述懐し、こう語った。

「2人の間には、他人が入り込めない深い絆があった。でも、さすがに擁護するわけにはいかない。でも若山さん、勝さんの帰国日程が知りたくて、一日中テレビから離れなかったそうですよ」

 そんな若山が京都市内の自宅で心臓発作を起こし、同6年(1992)4月2日に帰らぬ人となった。それは、勝が事件の判決を若山に伝えるため、京都入りしてすぐのことだった。

 4月7日正午、東京・大田区にある池上本願寺で執り行われた葬儀には約500人が弔問に訪れ、その中には、萬屋錦之助松方弘樹三船敏郎らの顔もあった。

 焼香に先立ち、喪主を務めた勝は、

「あんまりいい顔なんで、これが灰になっちゃうのは残念だと思うんですけども。今は泣けてますけど、本当は『よっ、トトトン、トンと』手を打っていただいて。人生が演劇であるなら、お兄ちゃんにとって素晴らしい千秋楽を迎えたなと」

 そう言って、早すぎる最愛の兄の死を悼んだ。

 享年62。

 その豪快な役者人生は散り方もまた、豪快な役者にふさわしいものだった。