記者バカ一代 マル秘取材メモで振り返る、昭和&平成「記者会見」裏面史

号泣!大爆笑!居直り!記者会見に見る、昭和・平成史

安達祐実 悲痛!爆弾処理班ほか捜査員40名で救急体制「日テレ封筒爆弾事件」の犯人像

                            

 これまでに何度か触れたと思うが、80年代のテレビ局は、NHKを除いてほぼ出入りが自由だった。

 もちろん、受付もあり、警備員も常駐しているのだが、当時は社名を名乗り、訪問先を告げれば、たいてい入局が可能だった。

 そのため、芸能記者になりたてのころは、毎日、朝から各テレビ局の食堂やスタジオをはしごし、情報収集に勤しんだものである。

 そんなユルユルだった入館体制が一変したのは、ある事件がきっかけだった。

 それが、東京都千代田区二番町の日本テレビ6階制作センターで、平成7年(1995)12月20日夕方に起こった、安達祐実宛の郵便物爆破事件だったのである。

日本テレビ放送網アナウンス部 安達祐実様」と書かれた封筒を開けようとした安達の男性マネージャーは、この爆発により左手に大きな負傷を負い、日本テレビ関連会社の女性社員も右肩に怪我をすることになった。

 一報を受けた警視庁は、ゲリラ事件と断定。

 日本テレビには公安のほか、警備部の爆発物処理班15名を含む、約40人の捜査員が出動、緊急体制が敷かれることになったのだ。

 この日、安達は日本テレビのGスタジオで、年末特番の収録中だった。

 当時、安達は同局の連続ドラマ「家なき子」に主演、「同情するなら金をくれ!」なる流行語を生み出し、最終回には37%の視聴率を記録するなど、絶大な支持を受けていた。

 だが、一方で、日本テレビには「貧乏人をバカにしているのか!」「いじめを助長する!」といった抗議文が連日届いていたという。

 私の取材に、筑波大学小田晋教授(犯罪心理学)はこう語った。

「おそらく犯人は中年男性。若ければ追っかけもできるが、それもできない。攻撃的手段により相手との関係を持とうとする。そんな孤独で、欲求不満の強い人物の可能性が高い。ただ、宛名がどうあれ、本人が郵便物を開封することはありえないので、犯人は日本テレビ関係者なら誰でもよかった可能性も否定できない」

 同日、囲み取材に応じた所属事務所「サンミュージック」の相澤秀禎社長(当時)は、

「祐実ちゃんは、お兄ちゃんのように慕っているマネージャーの怪我を知り、かなりのショックを受けています。呆然として涙もでないほどでしたが、そのあとは泣きじゃくるばかりで。お兄ちゃんに申し訳ない、ごめんね、と。そればかり言うんです」

 こう語り、唇をかんだ。  

 そして、この事件を機に、日本テレビでは郵便物チェックのための金属探知機を導入。他局もこれにならって、入館時のセキュリティーが強化されることになったのである。

 しかし、懸命な捜査もむなしく、爆弾魔が逮捕されることはなかった。

 事件は平成21年(2009)12月21日をもって時効が成立したのである。

チェッカーズ 最愛メンバーの死でも繰り広げられた「ドロ沼の罵倒応酬」の悲劇

                              

 昭和58年(1983)に「ギザギザハートの子守唄」でデビューするや、瞬く間にトップバンドに上り詰める。

 藤井フミヤを中心とした7人組グループ、チェッカーズだ。

 グループでドラムを担当し、クロベエの愛称で親しまれた徳永善也が舌ガンのため死去したのは、平成16年(2004)8月17日である。

 ところが、9月12日に予定されていた、東京・新木場「STUDIO COAST」での「送る会」前日、編集部に2枚のファクスが届いた。送信元は、元メンバーの高杢禎彦鶴久政治の所属事務所だった。

 うち1枚には、

「当日、11時30分から行われる記者会見において高杢、鶴久の両名は元チェッカーズのメンバーとして、徳永善也さんを6人で送りたいという希望を持っておりましたが、残念ながらその望みはかなえられませんでした」

 と綴られていた。

 もう1枚は、フミヤをはじめとした「送る会」発起人が高杢の事務所あてに送った通信文で、そこには、

「さて、記者会見なんですが、これに関しては送る会を立ち上げた発起人5人で行います。これまでの経緯上、そうする事が僕らの責任でもあり、義務だと思いますので、その旨ご了承ください」。

 つまり、2人への「出席辞退」申し入れともとれる内容だったのだ。

 高杢、鶴久と、フミヤらほかのメンバーとの確執が表面化したのは、平成4年(1992)の解散から11年後、同15年(2003)6月である。

 高杢が、解散の真相と内幕を赤裸々に綴った著書「チェッカーズ」(新潮社)を出版したことがきっかけだった。

 同著の中で高杢は、

〈金のためなら恩も売る。これがチェッカーズの本質だったか!〉

 と、金銭トラブル、さらに、フミヤの恩師に対する「忘恩」などを暴露。

 それが両者の間に大きな「遺恨」を生み出したとされる。

 さて、「送る会」当日、最前列に4人が並び、2人は1列空けた3列目に。

 その距離が、埋めることができない両者の溝の深さを表していた。

 別々に会見に臨んだ両者。フミヤは、

「デタラメな本だから読まない方がいいよ、ってみんなに言われたので、僕は読んでいないし、ここにいるメンバーも読んでいないと思う。溝にならないと言ったら嘘になる」

 この言葉に対し、病床のクロベエを見舞うこともかなわず、死去の知らせも親族からの電話で聞いたという高杢は猛反発。

「誰が僕たちをクロベエに会わせなかったのか。面会は誰ならOK、誰はダメと、それを担当した方がいらっしゃるらしいと聞きました。残念でたまりません」

 と唇をかみしめた。

 死の1カ月前、七夕の短冊に「みんなが仲良く」と綴っていたというクロベエ

 しかし、その願いはついに叶わなかったのである。

小森和子 映画評論のレジェンド”おばちゃま”が「400人斬り」男遍歴をアッケラカン告白

                              

 現在はお笑いタレントとしてだけでなく、画家や書家、そしてヨガ実践家としても活動する片岡鶴太郎だが、彼がブレイクするきっかけが「小森のおばちゃま」の愛称で親しまれた映画評論家、小森和子のものまねだった。

 小森は1909年の生まれというから、明治42年

 平成7年(1995)3月に自宅マンションで転倒して車いすが手放せなくなり、翌年1月に引退するまでは、80代にして現役バリバリの映画評論家として活躍してきた。

 私がそんなレジェンドに、長寿の秘訣である「食と健康法」について話を聞くため、彼女が主宰する六本木のムービーサロン「ココ」を訪れたのは、90年代初頭だった。

 当時は鶴太郎の「こ、こ、小森の、おば、おば、おばけちゃまよ~」というフレーズがウケていたこともあり、彼女もバラエティー番組などにたびたび出演。

 トレードマークである玉ねぎ型のヘアと、暖かい人柄が感じられる軽妙な語り口で人気を博していた。

 取材は1時間ほどで終わり、ひょんなことから恋愛話に。

 というのも当時、小森はバラエティー番組などで、

「昔は惚れ魔って言われていたけど、今は片思い魔」

フランク・シナトラちゃんにベッドへ誘われたの」

「神戸の外国人と付き合っている時に、日本人のスポーツ選手と遊んでいたんだけど、ブカブカだった」

 などなど、自身の男性遍歴をあっけらかんと告白。

 小森が言った。

「日本では60歳を過ぎたらSEXなんて過去のもの、と思う人が多いけど、おばちゃまが最後に『ああ、やっぱりいいな~』と思ったのは70くらいの時。SEXは神様が人間に与えた根本。いい年をして…じゃなくて、いい年をしてやれるんだったら、それが健康だという証。死ぬまで男であり、女であるべきだと思うわね、おばちゃまはね」

 聞けば、小森は19歳の時に、

「そんなもの、大切に守っていても宝の持ち腐れだよ」

 と言われ、初体験を済ませた後、一度結婚するも、離婚。

 婚姻中から数々の男性と浮き名を流し、生涯の目標はなんと「1000人斬り」。

 ただ、私が話を聞いた時点では「まだ400人くらい」と笑っていたことを思い出す。

 そんな話を素敵な笑顔で語ってくれたが、05年1月9日未明に、95歳で天寿を全う。

 翌10日、弔問に訪れた鶴太郎が囲み取材に答え、

「おばちゃまには、いつも優しく接していただきました。僕がブレイクしたきっかけは、おばちゃまのものまねですが、もう、ものまねは封印します」

 そう言って、大粒の涙を流したのである。

 小森の死後、養女によるすったもんだもんだの騒動もあったが、不肖この私も「死ぬまで男であるべき」と改めて胸に誓ったものである。

 

なべおさみ 「替え玉受験騒動」で、たけしが断言「やかんはダメなら即クビ」

                              

 平成3年(1991)4月に世間を騒がせた「明治大学替玉受験合格事件」。

 その主役となったのが、タレント・なべおさみの長男で、「たけし軍団」の一員として知られる、なべやかんだった。

 大学側が行った受験票と学生証写真の突き合わせにより、二部商学部に合格した2人が受験していないことが発覚。

 結果、大学は2人の入学を取り消し、代わりに受験した浪人生と、事件に関与した関係者を私文書偽造などの罪で、神田警察署に告訴したのだった。

 5月1日、緊急会見を開いた父親のなべによれば、コトの起こりは前年の同2年。

 なべが出演する新宿コマ劇場の楽屋に、50代半ばの紳士が訪ねて来たことから始まった。

「長男が浪人中だと話すと、『明治に入れりゃいいんじゃないの。名刺1枚くれる?』と。正月が明けたころ、その人から電話があり『書類揃えている? 推薦だからどこにするかはこっちに任せてね。話は上手くいっているから』と名前も言わずに電話を切った」

 3日後、指定された受験書類と受験料計18万円を添え、コマ劇場に持って行ったなべは、それを20代の男性に手渡した。

 その後、紳士からはなんの連絡もなかったが、突然、明大から合格通知が届き、驚いたのだという。

「私が明治大学出身で、たまたま多少名前が売れて、『明治大学明治大学』と言っているので、そのことの恩恵をこういう形で返してくれているのかな、という感覚しかなくて…。知人からお祝いをもらい、自宅でも、我が世の春という感じで赤飯まで炊いて祝いました」

 とはいえ、相手の素性も調べず、報酬の要求もなかったというなべの説明は、常識的に考えても理解できない部分が多く、結局、なべのウソが発覚。

 こうした騒動の結果、なべは東京ガスのCMを降板させられることになったのだった。

 だが、捨てる神あれば拾う神あり。

 渦中の長男は芸名を『なべやかん』として、7月14日放送のフジテレビの深夜番組「北野ファンクラブ」でデビューすることになったのだ。

 番組冒頭、たけしはこう語った。

「本人が来るって言うんだけど、オイラ、替玉じゃないかと思っているんだ。もう少し、早く事件があって(自身が主演する)『浮浪雲』に出てくれたら、視聴率8%取れたのになあ」

 これにはスタジオ内が大爆笑に包まれた。

 だが当時、私がオフィス北野関係者に話を聞くと、こんな答えが返ってきた。

「まだド素人ですからね。最初はボーヤとして、お茶くみや雑用をしてもらいます。給与は5万円。殿いわく、今は客寄せパンダですが、タレントとしてダメならクビ、となべさんに対して、はっきり伝えているようです」。  

 やかんは、平成30年(2018)3月、たけしの「オフィス北野」退社と同時に事務所を退社。

 現在も「替玉」に頼ることなく、芸能界で活動している。

北大路欣也 「父親が老人ホーム入居死」美談に「全部デタラメだ!」の罵倒騒動

 

                         

 北大路欣也の父で、「旗本退屈男」などで知られる、昭和を代表する天下御免の大スター、市川右太衛門(享年92)が、老衰のため千葉県館山にある老人保健施設「赤門なのはな館」で亡くなったのは、平成11年(1999)9月16日のことだ。

 2日後の18日、記者会見を開いた北大路は、次のように説明した。

「本人のたっての希望で、館山に入居しました。『密葬にして、死を誰にも知らせるな』という故人の遺言を守りました。大往生でした。70年も連れ添った母のそばで静かに幕を下ろすことに、感動しました。『100歳まで退屈男をやる』と堂々と言える親父が羨ましい。本当に尊敬しているし、一人の人間として心から愛していました」

 涙ながらに語る姿がまた涙を誘い、ワイドショーでも親子鷹の美談として時間を割いて取り上げられたものだ。

 ところが告別式からほどなくして、北大路の親族が、

「あの美談はすべてデタラメ!北大路は父を見捨てた冷血な男」

 と、週刊誌で激白し、急転直下の大騒動に。

 親族によれば、北大路は館山行きを拒む父を半ば強引に施設に追いやり、以降、連絡が取れなくなったと主張。

 さらに、毎日の食事さえ事欠く老夫婦に経済的援助もせず、見かねた家政婦が食費を立て替えていた、というのである。

 この証言が事実なら、「冷血」「姥捨て」と言われても仕方がないだろう。

 だが所属事務所に取材を申し込むも、

 「お話することはありません」

 の一点張り。

 そこで親族を取材すると、こう言って唇を噛んだ。

「週刊誌に語ったことが全てです。右太衛門さんの『老人ホーム』行きは、将勝さん(北大路の本名)夫妻以外、親族は誰も知らなった。だから、見舞いにった時には、余りのやつれ方に驚いて…。本当に悔しいです」

 そんな騒動から2年後の同13年(2001)12月19日。

 今度は右太衛門の妻である、スヱノさんが95歳で亡くなり、22日には東京・練馬区の信行寺で、通夜・告別式がしめやかに執り行われた。

 しかし、出棺前の最後の別れで、母の顔に手を当て頬ずりしながら涙を流す北大路の姿さえも、

「演技のようにしか思えない」

と、ある週刊誌に告白した親族の言葉に、決して埋まることはないであろう両者の大きな溝を感じずにはいられなかった。

田原俊彦 「ビッグ発言」で始まった事務所不信と、驚きのジャニーズ退職金

 

                           
 当時「マスコミ嫌い」を公言していた田原俊彦が、所属レコード会社の指示で「長女誕生の記者会見」を開いたのは、平成6年(1994)2月17日。

 誕生から3日後のことだった。

 そんな憤りもあったのだろう。

 開口一番、

「今日はお忙しい中、マスコミ嫌いの田原俊彦のために、こうしてお暇な時間にお集まりいただき、ありがとうございました。この場に挑むことになり、意に反することもありますが、僕のエンジェルちゃんのために頑張ります」

 とマスコミを挑発。

 そして、

「何事も隠密にやりたかったんだけど、僕ぐらいビッグになっちゃうとそうはいきませんけどもね、よくわかりました、はい」

 と言い放った、この「ビッグ発言」により、田原はメディアだけでなく、その向こうにいる視聴者の反感も買うことになってしまったのである。

 すったもんだの末、田原はこの会見の翌月、長年所属していたジャニーズ事務所からの独立を発表。

 その理由が、事務所に対する不信感だったというのだが、田原をよく知るレコード会社関係者は、当時、私の取材にこう答えている。

「結婚前の田原は、それこそ仕事が終わると毎晩、六本木に繰り出してディスコをはしご。『クラブ活動』に熱中しすぎて、翌日の撮影に遅刻してくる、なんていうのは有名な話。表には出ていないけど、今を時めく歌手や女優とも浮名を流していたしね。それを全部フォローしてくれていたのがジャニーズ事務所。でも、人気絶頂だった彼には、そういう裏方の苦労がなかなか伝わらなかったようです」

 とはいえ、現在よりも芸能事務所がタレントの私生活が干渉していた、昭和の時代。

 なぜ、田原は特別視され、ある意味、放任されてきたのだろうか。

 前出のレコード会社関係者はその理由を、

「田原がジャニーズ事務所の最大の功労者で、ジャニー喜多川さんが特別な温情をかけていたから」

 と話し、こう続ける。

「田原は昭和54年に『3年B組金八先生』(TBS系)で役者デビューし、翌年発売した『哀愁でいと』が70万枚を超える大ヒットとなった。70年代のジャニーズ事務所郷ひろみの移籍に始まり、フォーリーブスの解散、豊川誕の退所と、まさに『事務所始まって以来、最大の危機』を迎えていた。それを救ったのが田原だった。つまり、田原の『哀愁でいと』は事務所の低迷期脱出のきっかけを作った大きな意味を持つ曲だったというわけです」

 とはいえ、田原を事務所の功労者とするジャニー氏に対し、姉のメリー氏は、田原の紅白出場辞退(同63年)や、女性スキャンダルなどを看過するのは他のタレントに示しがつかない、と苦々しく思っていたとも伝えられ、前出のレコード会社関係者によれば、

「ジャニーさんは田原の退所に際し、『タレントは人に評価されて初めて、存在が成立するものだということを、しっかり胸に刻み込んで下さい』と、メッセージを送っていますが、田原は事務所退所後に上梓した著書『職業=田原俊彦』で〈退職金をもらったが通帳を見たらケタが違うのではないかと思った〉と書いています。この点だけとっても、両者の間に隔たりがあったことは想像に難しくない。結果、それが、テレビ局の忖度を生み、独立後、田原が干されることに繋がるわけですが、そう考えると、現在の復活は奇跡に近い。やはり、彼には華があったということでしょうね」(前出・レコード会社関係者)

 そんな田原は、今年1月には「永久保存版メモリアル」として写真集も発売。還暦を過ぎてもなお、ポジティブにコンサート活動を続けている。

 下世話な話だが、「哀愁でいと」の功績への対価は、いくらだったのか。

 気になるところである。

小島一慶アナ 「外国人女性と密会」「女性スタッフと不貞」相次いで発覚した”奔放下半身”騒動

                             

 一昔前、サラリーマン風の男性が小指を立て「私はコレで会社を辞めました」というテレビCMが話題になったことがある。

 それを地で行くことになったのが、人気アナウンサー・小島一慶の、外国人女性との「ホテル密会現場」発覚に端を発する騒動だ。

 小島は昭和43年(1968)にTBSに入社。

 独特の甲高い口調と親しみやすい語り口で人気を集め、ラジオでは「パックインミュージック」、またテレビでは「ぴったしカン・カン」などの司会を担当した。

 平成元年(1989)にTBSを退社すると、テレビ朝日と1年のフリー契約を結び、平成3年(1991)4月からの「モーニングショー」の新司会者をはじめ、昼の生番組「ホットライン110番」、さらには深夜の生番組「プレステージ」のMCにも抜擢される。まさに順風満帆を絵にかいた船出を飾る…はずだった。

 しかしこの年の3月、写真誌「FOCUS」に小島と外国人女性との密会現場写真が掲載された。

 2日後の15日午後4時、密会現場となった東京・六本木の全日空ホテルに隣接する「六本木アークヒルズ」内のレストランで、小島が緊急記者会見を開くことになる。

 憔悴した表情で現れた小島は、

「何から話していいのかわかりませんが、自分の愚かさに恥じ入っております」

 報道陣を前に深々と頭を下げると、記事が出た3月13日の時点で、テレビ朝日側には全てのレギュラー番組降板を申し出たことを報告。

「自分にとってはいちばん好きな、マイクロフォンのあるところから立ち去っていくことで、どうかご勘弁をいただきたい」

 そう話し、大粒の涙を流したのだった。

 だが記事には「現場写真」とともに、小島がパーソナリティーを務める番組スタッフ女性との不貞が原因で、この女性が夫と離婚していた、というショッキングな内容が掲載されていた。

 その点を指摘された小島は、ガックリとした表情で肩を落とす。

「書かれていることが間違っているとも、合っているとも言いません。一切、弁明はしません。私はバカです。どうしようもないなぁ…」

 だが、TBS時代から愛される人柄で友達も多かった小島は、謹慎を経てイベント司会者として復帰。

 私が「あの人は今…」的なテーマで、イベント会場で小島に話を聞いた際も「ごめんなさい。新たな気持ちで再出発しているので」と、丁寧な口調で取材は断ったものの、そこには人柄の良さが表れていた。

 ところが、である。

 そんな小島が平成21年(2009)1月、なんと婦女暴行容疑で刑事告訴されていたという、耳を疑うようなニュースが飛び込んできたのだ。

 この事件は後に示談が成立。

 告訴は取り下げられたが、関係者に与えたショックは大きかった。

 まさに「私はコレで芸能界を辞めました」となってしまったのである。