記者バカ一代 マル秘取材メモで振り返る、昭和&平成「記者会見」裏面史

号泣!大爆笑!居直り!記者会見に見る、昭和・平成史

田原俊彦 「ビッグ発言」で始まった事務所不信と、驚きのジャニーズ退職金

 

                           
 当時「マスコミ嫌い」を公言していた田原俊彦が、所属レコード会社の指示で「長女誕生の記者会見」を開いたのは、平成6年(1994)2月17日。

 誕生から3日後のことだった。

 そんな憤りもあったのだろう。

 開口一番、

「今日はお忙しい中、マスコミ嫌いの田原俊彦のために、こうしてお暇な時間にお集まりいただき、ありがとうございました。この場に挑むことになり、意に反することもありますが、僕のエンジェルちゃんのために頑張ります」

 とマスコミを挑発。

 そして、

「何事も隠密にやりたかったんだけど、僕ぐらいビッグになっちゃうとそうはいきませんけどもね、よくわかりました、はい」

 と言い放った、この「ビッグ発言」により、田原はメディアだけでなく、その向こうにいる視聴者の反感も買うことになってしまったのである。

 すったもんだの末、田原はこの会見の翌月、長年所属していたジャニーズ事務所からの独立を発表。

 その理由が、事務所に対する不信感だったというのだが、田原をよく知るレコード会社関係者は、当時、私の取材にこう答えている。

「結婚前の田原は、それこそ仕事が終わると毎晩、六本木に繰り出してディスコをはしご。『クラブ活動』に熱中しすぎて、翌日の撮影に遅刻してくる、なんていうのは有名な話。表には出ていないけど、今を時めく歌手や女優とも浮名を流していたしね。それを全部フォローしてくれていたのがジャニーズ事務所。でも、人気絶頂だった彼には、そういう裏方の苦労がなかなか伝わらなかったようです」

 とはいえ、現在よりも芸能事務所がタレントの私生活が干渉していた、昭和の時代。

 なぜ、田原は特別視され、ある意味、放任されてきたのだろうか。

 前出のレコード会社関係者はその理由を、

「田原がジャニーズ事務所の最大の功労者で、ジャニー喜多川さんが特別な温情をかけていたから」

 と話し、こう続ける。

「田原は昭和54年に『3年B組金八先生』(TBS系)で役者デビューし、翌年発売した『哀愁でいと』が70万枚を超える大ヒットとなった。70年代のジャニーズ事務所郷ひろみの移籍に始まり、フォーリーブスの解散、豊川誕の退所と、まさに『事務所始まって以来、最大の危機』を迎えていた。それを救ったのが田原だった。つまり、田原の『哀愁でいと』は事務所の低迷期脱出のきっかけを作った大きな意味を持つ曲だったというわけです」

 とはいえ、田原を事務所の功労者とするジャニー氏に対し、姉のメリー氏は、田原の紅白出場辞退(同63年)や、女性スキャンダルなどを看過するのは他のタレントに示しがつかない、と苦々しく思っていたとも伝えられ、前出のレコード会社関係者によれば、

「ジャニーさんは田原の退所に際し、『タレントは人に評価されて初めて、存在が成立するものだということを、しっかり胸に刻み込んで下さい』と、メッセージを送っていますが、田原は事務所退所後に上梓した著書『職業=田原俊彦』で〈退職金をもらったが通帳を見たらケタが違うのではないかと思った〉と書いています。この点だけとっても、両者の間に隔たりがあったことは想像に難しくない。結果、それが、テレビ局の忖度を生み、独立後、田原が干されることに繋がるわけですが、そう考えると、現在の復活は奇跡に近い。やはり、彼には華があったということでしょうね」(前出・レコード会社関係者)

 そんな田原は、今年1月には「永久保存版メモリアル」として写真集も発売。還暦を過ぎてもなお、ポジティブにコンサート活動を続けている。

 下世話な話だが、「哀愁でいと」の功績への対価は、いくらだったのか。

 気になるところである。